1952-07-25 第13回国会 参議院 本会議 第69号
政府は、保安隊、警備隊が外敵に対抗しても、それは国内治安維持のための警察行動であつて、自衛戰争ではないと主張しているのであります。即ち、この場合の保安隊、警備隊の行動は、国際法秩序維持のための軍事行動ではなくして、国内秩序維持のための警察行動である、従つて外摘に対しても国内法を適用するのだと弁解しているのであります。
政府は、保安隊、警備隊が外敵に対抗しても、それは国内治安維持のための警察行動であつて、自衛戰争ではないと主張しているのであります。即ち、この場合の保安隊、警備隊の行動は、国際法秩序維持のための軍事行動ではなくして、国内秩序維持のための警察行動である、従つて外摘に対しても国内法を適用するのだと弁解しているのであります。
なぜなら、今までの戰争は、たとえそれが侵略戰争であつたといたしましても、その多くが自衛戰争という名目で戰われたためであります。国民の戰争に対する深い反省と平和愛好の熱意によつて、世界にその例を見ないところのいわゆる平和憲法が制定されたのであります。なお、当時の占領軍司令官であつたマ元帥も、日本は東洋のスイスたれと指導され、この平和憲法成立に対しては満腔の敬意を表されたところでございます。
これは常識的には自衛戰争だと思うのだが、どうかという質問に対して大橋国務大臣は、戰争ではないということを言われております。恐らくこの点については木村法務総裁も同じような立場を従来説明されて来たと思うのでありますが、自衛戰争と予備隊なり保安隊のとる自衛行動とは、どういうところに違いがあるのでしようか。
従つて自衛戰争もできるような形になつておる。ところが二項に参りまして、今の戰力及び交戰権を否定しておりますからして、結局自衛権はあつても自衛の戰争の形ができない。自衛戰争ができないというような筋で、事実上自衛戰争ができないというような筋で当時お答えしておつたわけです。従いまして今の外敵侵入した場合について云々ということはおつしやる通り出ておりません。
この場合における我が国の自衛行動というものは飽くまでも国内治安確保という意思に基いて行動しておりまするし、又行動の限界も飽くまでその範囲にとどまることでございまするから、これが自衛戰争となるということはあり得ないと考えております。
○三好始君 首相は三月十日の予算委員会において、自衛のためでも戰力を持つことは再軍備であつて、憲法改正を要するという有名な訂正発言をされておるのでありますが、自衛戰争そのものについては、現行憲法の下で可能であるかどうかということについて、従来そう明確な考え方が発表されたことは聞かないのであります。
○三好始君 それでは自衛戰争もやはり警察行動だと言えないことはないということになつて来ますが、国外に出て行かないで、外敵が侵入して来た場合に国内で抵抗するということにとどまつておる自衛戰争は、実は政府の考え方から申しますというと警察行動に過ぎない、こういうことになりますが、それでいいですか。
又予備隊、警備隊等は、外敵侵入に際し、本来の任務としてではなく、国内治安維持の必要から自衛手段に出るのに過ぎず、違憲ではないという立場は、窮極的には現行憲法の下において自衛戰争を是認する思想を示すものにほかなりません。憲法が問題にしているのは、主たる任務が国内治安の維持にあるか外敵防衛にあるかではありません。海外に出動するか否かでもありません。
○吉田法晴君 昨日も木村法務総裁、それから佐藤法制意見長官と法律解釈の問題について質疑を続けたのでありますが、今までの総理、或いは木村法務総裁等の説明で、否定せられておりました自衞戰争の放棄について、憲法制定当時は自衛戰争も放棄したのだ、この点が明らかになりました以外には、従来の説明が繰返されるだけで進展をいたしません。
そこでいやしくも九條の二項のいわゆる「戰力」というのがそういう意味で戰争をなし得る力を言うのでありますから、自衛戰争というものを許されて自衛戰争のためなら戰力を持つてもいいと若し仮に仮定するならば、その戰力もやはり先ほど言つたような力を持つた戰力でなければならないではないか。その以下のものはやはり戰力ではないということになるのではないかと思います。
この條文成案の経緯、英訳文、憲法学者の多数の意見、政府の当時の説明等を総合して、異議なかつたところのものは、一つは無條件の交戰権否認であつて、自衛戰争を放棄するということでありました。このことについては、一、二の反対意見がございますが、それは極めて少数であること周知の通りであります。マツカーサー元帥が憲法改正について民政局に與えられた重要な三点の一つには、次の一項がありました。
この不戦條約が調印されたとき、関係国の間の交換公文が発表されておりまして、その交換公文の趣意によると、自衛権並びに自衛戰争の問題はきわめて明瞭に当時から規定されておるのであります。フランスも、ドイツも、日本も、イギリスも、ポーランドも、皆戦争放棄が何を意味するかということの解釈を公文で発表しております。
なぜかというと、憲法第九條第一項によれば、もしこれだけならば、不戦條約以来の世界の定説によつて、自衛戰争は放棄したものにあらずということなんです。これだけなら侵略戰争を放棄するということの意味であることは、憲法第九條第一項の意味としては間違いのない解釈です。
第二項さえなければ、われわれは自衛戰争をやつていい、戰備を持つてもいいということになるわけであります。しかるにかかからず、日本の国は、皆さん御承知のように、わかり切つたことを申し上げて恐縮でございますが、思い出しても過去にいろいろな例があります。
これはちようど太平洋戰争を自衛戰争とみずから呼びましたのに懲りまして、戰争を禁止する範囲をたいへんに広くしている本条の趣旨と同じように、戰力を禁止しようという場合には、戰力でないという名前のもとに、戰力の限界がたいへん高くきまることをおそれて、第九条第二項の規定は、戰力に行使し得る——戰力に行使し得るというのは、ちよつと言葉が誤解を招くと思われますが、潜在的な可能性を持つたものさえも徹底的に禁止しようという
この万一云々、たとえば万一この自衛権の発動として日本がそういう誤解を招くようなことがあつたらというようなお尋ねにちよつと拝聴いたしましたけれども、そういうことは先ほどからるる申しましたように、ないことであり——ないことであるというと独断的でありますけれども、この憲法は、むしろ自衛戰争の名において侵略戰争がなされた、それがいけないから憲法九條というものができているのでありますから、そういうことはあり得
それでもやはり国際法上ではこれは自衛戰争である、こういう誤解を受ける場合が多いと思うのです。かつて自衛戰争であると称しながらそれが侵略戰争とかわつたと同じような意味において、日本では主観的に自衛権の発動であると思つても、国際法的にはこれはそうでなく、自衛権の濫用であるといういうな場合があるのです。
その第一点は、憲法第九條に、自衛権はある、しかし自衛戰争はできないということが明らかになつております。ところで自衛戦争はできないというのならば、これはつまり戰力の行使によるところの自衛戰争はできない、こういうふうに政府は解していると思います。そうすると九條を見ますと、戰力と武力という文字が使いわけをしてあります。
憲法第九條は戰争を放棄する、一切の戰力を持たぬと規定しておりますが、それは單に国際紛争を解決する手段としての戰争を放棄し、またそのための軍備ないし戰力を持たぬということだけでなく、自衛戰争をも放棄する、自衛のためにする戰力をも保持しない、こういう意味に私どもは解釈すべきであると考えます。
自衛戰争と憲法の交戰権否定との関係如何。内乱に米軍の援助を得るのは内政干渉とならないか等の諸質問に対し、政府の答弁は、圧迫は何もない。平和條約で得た独立を守るためである。片務的という気持はむしろ米国が言いたいところで、ヴアンデンバーグ決議による相互援助の義務は日本が目下負い得ないから、米国の一方的義務のように書かれている。安全保障條約は原則を定め、行政協定は施行細則で、憲法に牴触はあり得ない。
過去においては国会においてそれを審議する際に、これが侵略戰争なるか自衛戰争なるかという当時の国会においても論議が阻まれたことがある。
それから七月十二日に金森国務相は、「理論的ニハ自衛戰争ハ正シイニシテモ、総テノ戰争ガ自衛戰争ノ名ヲ藉リテ然ラザル戰争ニ赴クト云フコトノ労ヒヲ、憲法ノ中ニ残シテ置クヤウナ言葉ヲ避ケル方が宜イト云フ考へモ成立スル訳デアリマス、此ノ憲法ハ其ノヤウナ考へニ依リマシテ、特ニ区別セズ謂ハバ捨身ニナツテ世界ノ平和ヲ叫ブト云フ態度ヲ執ツタ次第デアリマス」というように述べておられます。
これは昨日の同僚議員の質問の中にも出ておつたと思いますが、大橋法務総裁の意見によりまするというと、日本の憲法の第九條第一項並びに第二項は、何も自衛戰争というものは否定してはおらん、それから又陸海空の戰力を持たないという場合には、日本の戰力を持たないことであつて、外国の戰力をそこで以て否定しているのではないというような答弁があつたように記憶しているのであります。
私どもが、芦田さんのお考えの中まで推測することはできませんけれども、これが当時衆議院の委員会、それから又派生しておりまする小委員会でこの問題が起つたのでありまして、当時の修正……、或いはそのときに、私の記憶が確かであるならば、下手をすると、こういうふうに直すと、日本が自衛戰争のために軍隊が持てるという解釈が起る心配はないかという、それは私も非常に杞憂を持つて、特にそういうことを聞いたのであります。
先ほどのお話で憲法第九條を中心にしてお話がありましたが、自衛戰争をする権利は憲法第九條は認めている、併し自衛のためにもこの戰力というものを持たないように規定している。こういうお話でありましたが、併し自衛の範囲内ならばアメリ軍の駐屯を許すことは憲法第九條に反しない。
それが省略せられて世の中に伝達せられますると、新聞紙その他の面に現われますると、それ自身が独立な力を持ちまして、日本の憲法は一切の関係において自衛戰争までも否定したのである、こういうふうなことが一面において言われておりまするけれども、そういう趣旨は憲法の中には含まれていないと思います。理論として自己を守るということは人類の本性です。
○中曽根委員 人格の自由を守るために、国家が自衛戰争をやることはやむを得ない、こういう解釈になるのではないのですか。国家が先にあつてそういう回答が出て来るのではなくて、自由なる協同体であるとか、あるいは人格の独立性であるとか、価値であるとか、そういうものが基本になつて、それを守るために、フレームとして国家というものがあるから、そういう国家の行う自衛戰争は正当であると判断されるのではないですか。
しかし憲法では交戰権を放棄いたしまして、自衛戰争をも放棄し、かつ自衛のための武力の保有をも認めないということになつておるのでありますから、私はそういう協定の趣旨に慕いて外国の軍隊が来た場合の、その外国の軍隊は、やはり日本のための戰力である、そうするとやはり憲法の規定に違反すると私はこう思う。いかがでしよう。
一方の国が攻撃し、それに対してもう一つの世界が、これを守るという場合においては、これは自衛戰争以外の戰争は認めないというのが国際連合憲章の精神でもあろうかとは考えますけれども、そういう場合において——日本とダレスさんとの話合いというものは別といたしまして、これからの一切の集団的保障体制が発動する軍事力というものは、ことごとく集団的自衛権の発動である、こういうふうな解釈をされるのかどうか。
(拍手)もとより独立国の日本が自然法的な自衛権を放棄したと見るべきではございませんが、憲法の規定によつて自衛戰争をも含めて戰争を放棄し、かつ一切の戰力を保持しないことをきめました以上、われわれが軽々にみずから進んで再武裝を口にすべきでないことは明白でございます。
これは国際紛争を解決するために、国際法上の戰争であるとか、あるいは武力による威嚇であるとか、あるいはその行使ということを絶対に行わないことを、明らかに規定したものでありますが、これがはたして自衛戰争までをも放棄したかどうかということは、今後とも私は大きな疑問と論議が残されておると考えるのでありますけれども、これにつきましては政府当局が先般来の当外務委員会におきまして、自衛戰争まで放棄したものであるということを